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信州岡谷の味噌の歴史

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信州岡谷の味噌の歴史

長野県諏訪地方は勇壮な御柱祭でも知られるように太古、縄文時代から脈々と歴史と伝統を守る地でした。
標高760mを超える山間地で冷涼な気候の為、農業はほとんど一期作しか出来ず、工夫を凝らし収量を上げたり農閑期の仕事を人一倍働くなどする中、勤勉で研究熱心な気風が育ちました。

諏訪地方の西域にある岡谷市は、日本の明治維新からの経済基盤を支えた製糸業の町として発展しました。
諏訪人の勤勉な気風は製糸産業勃興の為の様々な創意工夫を生み、また製糸業に欠かせない諏訪湖という水がめも大きな助けとなり、高品質な生糸の生産地として発展し、女工さんはじめ多くの若い労働力が周辺から集まり、「村」から「町」をとびこえ一躍「市」に昇格するような発展がありました。

昭和30年頃 味噌の樽詰めの様子

当時味噌はあまり市販されているものではなく、多くは自家製のものでした。
製糸工場でも女工さんらの食事の為味噌醤油を自社調達する必要があり、工場ごとに味噌を仕込むようになりました。工場でも腕の良い女工さんを集める為、旨い味噌造りに励みました。

大正末期から昭和初期に世界恐慌や化学繊維の発明などで製糸業が衰退し製糸工場も操業継続が難しくなると、製糸業時代から培われた都会とのパイプを利用して絹糸に代わり、自社製造していた味噌を東京などに販売するようになりました。
諏訪の気候や水、そしてものづくりの技術の高さで信州からの味噌の旨さは評判となりました。

昭和30年頃最大生産地の記念塔落成式

第二次世界大戦後には食料不足も手伝い、更に岡谷からの味噌出荷は増え、昭和30年頃には岡谷市が味噌の日本最大生産地を誇った時代がありました。

小さな町に40社を数える味噌蔵があり、味噌の品質向上に切磋琢磨しておりました。いち早く味噌の研究機関も設け桶売りから袋詰めへの移行など製造技術や包装の研究や酵母、乳酸菌などの有用微生物の利用法などを開発し業界に大きく貢献しました。

スーパーが大頭する以前は酒屋や味噌販売店の店頭に味噌を桶で盛り上げ秤り売りの形式が主流でした。
そんな得意先が多かった岡谷の味噌蔵はスーパーと提携し、低価格で大量生産する他地区の大規模味噌工場に押され徐々に減少するに至りました。

現在スーパーの店頭には、味噌を加熱しダシの旨さで食べさせる「だし入り味噌」が手軽さで売り場の多くを占めるに至っていますが、一方では酒屋などで売っていた秤り売りの味噌のような調味料を使わないでしっかり発酵した昔ながらの味噌を求める声も多くなりました。
岡谷の味噌蔵は低価格競争に加わらず品質を重視する方向性でがんばりぬいた小さな蔵が残り、高品質な味噌造りを続けています。
昔ながらの伝統の技と少量生産だからこそ出来る豊かな味わいが、インターネット直販が可能になった現在、新たに注目を集めています。

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