喜多屋みそが生き残ってこれた理由
修行中みそ姉妹の姉・愛です。
味噌はもともと家庭でつくられるものでした。
(外で買っているところを見られると恥ずかしいので、顔を隠して買いに行っていたと言われているんですよ!)
それが明治以降、社会の成長により外に働きにでる人口の増加に伴い、買い味噌の需要も大幅に高まっていきます。
最盛期は今からおよそ50年前の1973年(昭和48年)です。
昭和初期から長野県は味噌需要拡大に伴い味噌屋が急増し、私たちの地元岡谷市では48社の味噌蔵が連立していました。
実は岡谷市ってその頃味噌の生産量が日本一だった地域でもあるんです!!
それが、現在残っている会社は9社のみに。
全国的に見ても味噌屋の数は減少を続けています。
何故ここまで衰退したのか。
理由は大きく2つ。
一つは、食の多様化により味噌離れが進んだこと。
一人当たりの年間の使用量平均は16キロから3キロまで減少しました。
もう一つは、便利なダシ入りみその台頭により大手の勢力が一気に拡大したこと。
それにより力のない小さい味噌屋は価格で勝負できなくなり淘汰されているのが現状です。
では何故、社員数10人に満たない小さな味噌蔵、喜多屋が生き残ってこれたのか。
私が思うに、1に商品開発力 2にきめ細かな営業努力が実った結果に感じます。
これは社長である父、佐々木一夫の功績によるものが大きいです。
父は昔からもの作りが大好きで、自転車、レコード、オーディオなども手作り。
また、私が小さい頃からしょっちゅうお菓子を焼いてくれました。
それがまた美味しかったから私の小さい頃の夢はケーキ屋さんだったくらい。笑
仕事でも2つのヒット商品を生み出しています。
それが『うまいずら(元祖浅漬けの素)』と『雪娘(みそ)』。
商品についてはまた改めて説明させてくださいね。
これが生き残り理由その1の商品開発力です。
そして生き残り理由その2は、きめ細かな営業努力!
喜多屋は昔から地元の配達は自社で行ってきました。
派手なオレンジと緑のトラックで、ご家庭や飲食店,、保育園、小中学校などにお味噌をお届けします。
それも何度も顔を出し、足りなくなる前に補充するという御用聞きスタイル。
「他の味噌屋の営業マンさんは自社の社長に喜多屋を見習えといわれた。」
と教えてもらったことがあります。
現在でも諏訪エリアでは頼もしい営業マンさんの活躍により、そのスタイルを貫いています。
こういった理由と、一人一人の日々の努力によりこの生き残り競争の激しい中、喜多屋は皆さんに喜んでもらえる味噌屋を続けられているんです。
喜多屋は今年で90年側近の目標は100年企業になること。
これからが楽しみです。